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寄り道したっていいじゃない ~from Canterbury~
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先日は自分の事ばかり考えた言葉を並べてしまった。

過去の日記(何度も修正したのだが…)
「あれから約一年 ~ 私と根っこ~」

私はそこで相手の気持ちを考えていたのだろうか。否。
ただそうしたいという願望だけを出していたに過ぎない、
再度読んで気が付いた。

遅い。

深入りすることで、その関係に終わりがやってくるかもしれない。
そうだとしても、私が相手を信じているならば怖いものはない。
いつか忘れられる日が来ようとも、
私の感じた「心の重さ」がきっと相手の心にも残っていてくれるだろう。
それがふとした瞬間、その人の記憶に触れるかもしれない。
それが例え何十年後になろうとも、
ほんの数秒、私が隣に居た時間を思い出してくれればいい。
生涯の記憶から消えてしまっても、
多くの人に生かされた私の魂が覚えている。
浄土で再び出逢う宿命であれば、
そこからまた始めればいいじゃないか。


すべてを受け入れ、すべてを許す。


それが「優しく柔な人間」というものなのかな。

いつか私もたどり着けるのかな、ばあちゃん。

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去年のちょうど今頃、先の不安から逃れられずに感情的な日記をmixiに残していた。
久しぶりに読んでみて、その頃抱えていた葛藤を振り返る。

悲観的に捉えられるかもしれないが、私はそう思っていない。
時に後ろを向くことで、課題が生まれたり、現状を考える機会になると信じている。
良く言えば、過去の自分を笑い飛ばして我に返らせてくれる精神安定剤(良くないか)
悪く言えば、ただの現実逃避、である。

過去を呼ぶ時はたいがいこの二つがあてはまる。
大きな道に迷い、上も前も横も見れない小心者に残るのがそれだ。
もしくは大きな変化が訪れ、はて昔の自分は何をしていたのだという単なる興味心。

このように、
どこかしら記録に残しているから「あの時」の心境をありありと感じ取る事ができるのだ。
朝日の暖かさを腕に感じて泣きながら書いたものでも、
こうして眺めてみると、何てことはない、自分の変化に気付くのみ。
目がぱりぱりに乾くまでパソコンのキーを叩いていた濃い数時間が
一瞬にして私の体の一部になるのだ、おもしろいではないか。

ここに載せるのは社会的自殺行為に相当するが、
一年前と現在の変化を見るため、
また来年の今頃の自分のために残しておこうと思う。

まず、留学を目指し勉強を始めたばかりの頃の…なんであろう。
不安や愚痴をだらだらと並べ、行き着いたのが結局この部分である。
表面だけ見ると「物語」の出来損ないのようにも見えなくはない。
ともかくこの「文章」をパソコンに打ち込んだのは、
他の誰でもない、私自身であるのは間違いないのだ。

注意しておきたいことがある。

ここで言う「根を張る」というのは、
世間での「自身の在り方」、だと思っている。(よく解らないか)
「壁を超えてわが道を進む」という表現もあるが、こちらは誰もが理解できるであろう。
どちらも自分の中身を表現したものに変わりは無い。

前置きはこれくらいにしてそろそろ始めるとしようか。
さあ、大きな声で笑ってくれ!(いや、失笑だろうか


___2006年4月4日____________________________☆


空を向いている植物は太陽からたくさんの栄養を摂る。 
土の下は見えないけれどしっかりと根を下ろしている。
外の世界では役目を果たそうと美しい花が咲く。 

幹や茎からにじみ出る水分も命が溢れていている。
その恵みを求め昆虫たちが集まってくる。
そして役目を終えたら次の子孫を残していく。 

だけど植物そのものが死んでしまえば、
痩せた幹の根元は土に負けて根が外に出てきてしまう。 

こんな私が思うこと。

自分は自虐的であろうが不器用であろうが不安抱えていようが
そんなこたーどうでもいい、辛いのはあたしだけじゃない。
落ちる時は落ちて折り返し地点まで行ったら凛と胸を張って戻ってくる。 

それでいいと思う。

どんな種も最初は根っこが下へ伸びる。
根っこが見えない人間になりたい。

__________________________________________☆☆


この頃はただ、目の前にある壁が大きすぎて立ちすくんでいたが、
単純に視界が狭かったのであろう。
そして現在の…ああ、やはり慣れないことはするべきではない。
しかし、年に一度なら天も許してくれよう。

「木を見て森を見ず」という文句がある。
こんな所にお出で願うのは失礼になるのだろうか。
大きすぎる言葉に思えて仕方ない。
この古き文句を自身に投げかけ、そこから何が見えてくるのか、
ここに書くにあたり少しばかり時間をかけて真剣に考えた。


___2007年5月4日_________________________☆


とうとう芽が出た。
生まれてきた等身大の相棒を愛しく想った。
今までの孤独を埋めるかのように、私は話をする。

ところがある時、彼の声を聞く。

「ここにいる僕は<僕>ではない」

外の大地に根を張ればぐんぐん伸びて広い世界を見せると言う。
豪雨の槍も、共に浴びて共に戦えば怖いものはないと笑う。

外に広がる世界では
月が暗闇を照らし、朝日が人々の魂を救う。
風が生命の種を運び、雨が小さな命を誕生させる。

小さい芽に肩を並べて見る不変の世界に愛しさを感じることもあるだろうが、
大きな木に登って見る無限の世界に計り知れない喜びを感じるだろう。

どんな世界に行こうとも、
自分で自分を認めてやれるのならば、
誰かを信じて信じ抜くことができるのならば、

きっと誰にも優しくなることができる。

お互いここに留まるわけにはいかないのだ。

己の命を掛けて生きる相棒を肌で感じていれば、
自分もきっと強くなれる。

まだまだ幼い芽だけれど、私の相棒が教えてくれた。

______________________________________☆☆


書き終わって感じたのだが、どうやらこれは「私の心」の様子らしい。

私は人に怯え、誰も信じられない状態を常として生きてきた。
己も信じることもできず、ただひたすら何かに怯える子どもであった。
人の心に触れることなどなかった。そして、初めて感じる「心の重さ」に戸惑った。
つまり、”夢”や”大きく手を広げて迎えてくれる友人ら”との「出逢い」が
「芽が出た」という言葉に表現されたことになるのだろうと思う。
そしてもう一人の自分である、彼(芽)の発した言葉の意味を探すために
私は今の場所を出るべきなのだ、などと感じたのだろう。
そこには見たことのない世界が待っている。

それはまた、次のような答えを導いてくれた。

_ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _☆


私は人生のほとんどを自己嫌悪に費やした人間である。
23年経ったいま、そんな人間だからこそたどり着いた言葉がある。

「優しく柔であれ」 ― 硬い者同士が衝突すれば、必ず関係が砕け散る。
だが一方が柔らかい者であれば、相手を受け止めることができる。

長い間、内も外も硬く壁に閉ざされていた自分に積み重なった結果が
私の座右の銘として自身に語りかけたのだ。
見返りなしに強く信じていられる人間に出逢えた時、それはまた強く私に訴えかける。
本気でその人の力になりたいと切に願うのならば、
自身をさらけ出すことができる。
私にとって、それは絶対的な信頼を示す。

そして、相手の心が話してくれる瞬間を静かに待つのだ。
目を見て、訴えかける想いを感じたなら、何も隔てるものはない、
私は大きく手を広げてそこに「在る」のみ。


100パーセント、「受身」でいることだ。


目の前にいる相手が心を抱きしめ飛び込んできてくれた。
私はそれを真正面から受け止める。


ここで感じた想いを「共感」と言うのならば、
その結果、自身に圧し掛かってくるものが、きっと相手の「心の重さ」なのだろう。
出口のなかった涙が「外に出たい」と私に訴えかけるのか、
はたまた誰にも向けようのない怒りが体を越えて私に縛りつくのか、
深い会話が出来た時間は幾度となく複雑な感情に出逢うことになる。
時に自分が何者なのかを見失う一分もある。
「共感」と同時に、相手の心に対する「責任感」も生まれるのではないか。
それは時に自身を苦しめるものになるかもしれない。

しかし、頑として変わらぬ願いがある。
私はいずれも受け止め、代わりに表に出してあげられる心を持ちたい。
共に感じることで、その一瞬一瞬の感情が大切な体の一部となるだろう。
そして、そこで交わした笑顔が掛け替えのない心の財産となるだろう。
例えそれが自身を苦しめるものになろうとも、
「心の重さ」を感じようともしなかった愚か者の報われになるのならば、
私は喜んでそこに身を捧げよう。
同じ涙を流すことでその人の心を優しく優しく包んであげられたならば、
己のためだけに流れていた醜い涙は一瞬にして浄化されてしまうのだから。

外の世界(他人)に絡まり相手の気持ちを理解するよう努めれば、
そこから得た「心の重さ」を自分の糧にできれば、
いつか自分は「優しく柔な人間」になれるのではないか。
それはまた、誰かに安心感をもたらせることができるかもしれない。
その時、自分の存在価値が生まれるのではないだろうか。
そこで初めて、浄土に旅立ったばあちゃん
私のモットー /私の座右の銘を与えてくれた人だ)
のような「心」を持つことができるのではないか。
そうすれば、きっとこんな自分を愛してやることが出来る日が来るだろう。

 

_ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _☆


ここ最近、友人らにこのブログを覗いて笑ってくれと吹いて回った。やっと教える気になるも、ここで生き恥をさらさなくてはならないことに気付く。

じいちゃんが本を書いた。
じいちゃんは元住職で今は九十歳近くになる。

ばあちゃんの「私のモットー」を読んだ。
人生の岐路に立たせてくれた今は亡きばあちゃん。
留学前に思わぬ贈り物。

じいちゃんありがとう。
そして、じいちゃんの並べた言葉に涙涙。


「私のモットー」 / ばあちゃん

一、人の心を粗末にしないように努める、
一、私の心の恥ずかしさを反省します、
一、檀信徒は忘れず心から迎えよう、
一、強く明るく素直に聞法に努めます、
一、一日でも和の心を忘れず、自分を見つめて行こう、
一、物質的財産より精神的財産を豊富にしよう、
一、主人、若夫婦、孫を心から尊敬しよう、
一、人の振りを見て我が振りをなおそう、
一、世の中の大波小波を乗り越える私になろう、
一、寝る時に必ず五体に感謝しよう「我行精進忍容不悔」。


じいちゃん、元気でいてね。


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自己紹介:
浪人・短大と心も体もふらふらした後にたどり着いた修行の場「翻訳学校」も単なる通過点であり、人生を決める出逢いを果たす幸運に恵まれる。寄り道ばかりしてきたが23歳にしてやっと自分の「夢道」を見つける。

夢は児童文学研究家
UKで英文学を学ぶ

2007年-道のりはこっち→ (=ω=)


・だいぶ図太くなりました

・孤独と個人化が同居中

・分析屋です

・aikoは心の一部 いつもありがとう

・目指せハーマイオニー

・でもやっぱり私はまる子
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